中国の悠久の歴史は、そのまま文化の奥行きへとつながっています。お茶、陶磁器、絵画、仏教、占い、中国建築・・・・一見馴染みがあるような話題でも、意外と知られていないことは多いもの。現代中国における身近な生活習慣と絡めてご紹介します。
中国の戯劇芸術 — 評劇
(10.02.04)
評劇はもともと「平腔梆子戯」といい、俗称は「唐山落子」や「(足崩)(足崩)戯」と呼ばれています。100年ほど前に、河北省唐山一帯で形が出来上がりました。評劇の元になっている「蓮花落」は歴史の古い民間の伝統戯劇芸術で、伝わっていた地域もかなり広く、万里の長城の内外に行き渡っていました。
蓮花落は貧しい旅芸人が演じていました。縁起の良い物語や昔話を謡いあげるもので、祝い事の時に踊る「秧歌」や影絵の「皮影」、民間楽器など様々な要素を吸収して形成されてゆきました。もともとは芸人が竹の板を楽器代わりに使って1人で歌っていて、清朝末期にはお祭りや市の日にあちこちで見ることができました。また、村落を巡回して演じられていました。その後は徐々に2~3人で歌うようになり、また敵・味方役を2人が演じて簡単な伴奏が入るようになっていったのです。
芸人たちは貧しさを克服して身分を得るため、蓮花落を工夫して磨きをかけ、だんだんと芸術の域にまで高めてゆきました。中でも著名な芸人の成兆は民間の伝統芸術を吸収してアレンジし、村々を巡回するうちに弟子も増え、叙事的な表現や代言的なセリフなど生活に密着した演目を開発して農民たちの人気を集めました。
1908年にはセミプロの蓮花落劇団が複数立ち上げられ、役者の幅も広がり、京劇に見られる「老生(中年以上の宰相や学者)」「老旦(老婦人)」「青衣(貴婦人)」といった固定キャストや決まったセリフも出来上がりました。舞台に上がる人数が多くなると、差別化をはかる意味で衣装やくまどりにも変化が生まれました。
1909年、蓮花落はさらに発展して各劇団も数十人規模の大劇団になりました。成兆が率いる劇団「慶春班」が永平府(現在の河北省秦皇島市盧龍県)で行った興行は大反響をよび、府政府に自由な公演を認められました。これをきっかけに、蓮花落は各地の政府でお墨付きをもらい、発展に勢いをつけました。
1915年、慶春班は天津で「老媽開口傍」「馬寡婦開店」「花為媒」など20数種類の大型興行を行い、当時の演芸界で高い評価を受けました。慶春班は1917年に「京東永盛合班」と改名し、唐山と天津を行ったりきたりして公演するようになったのです。翌年には河北省山海関でも公演を行い、同じく大劇団の「警世戯社」も東北3省で巡演し、黄金時代を築き上げました。
「平腔梆子戯」と呼ばれるようになった蓮花落は1918年、唐山で実を結びました。独自の脚本を作り、独特の歌謡法や伴奏で基本的な評劇の形が出来上がりました。
警世戯社が東北で名声を上げたあと、北京や天津に雨後のタケノコのように沢山の劇団が誕生しました。また、芙蓉花、劉翠霞、白玉霜、小桂花といった若い女優が人気を呼び、その名声は全国に響き渡りました。
新中国誕生後の1949年、空前の繁栄を見せていた評劇は政治的な要素も受けて新たな形に生まれ変わり、1980年代以降も優秀な後継者を生んでいます。
誕生してからおよそ100年の評劇は、芸人たちの苦労が実を結ぶかたちで民間芸能から芸術へと生まれ変わりました。今も発展を続ける評劇は、多くの人たちから依然大きな支持を受けています。
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