中国の見どころは、必ずしも発展著しい大都市や、30にのぼる世界遺産だけではありません。中国全土それぞれのエリア・街に独特の個性があり、たとえ有名な観光スポットであっても、見逃されがちなポイントは数多くあるのです。知って得する観光情報はこちらから!
世界遺産:廬山
(10.05.26)
所在地
:
江西省
廬山は江西省九江市にある山で、一番高い峰は「漢陽峰」です。言い伝えによると伝説の王・大禹がここに座って長江の洪水の様子を観察し、九江の流れをどのようにしたら良いか考えたといいます。魏晋南北朝時代、廬山は文人や政客が争って訪れる場所になりました。西暦405年、41歳の陶淵明は県令をわずか80数日間務めたあと辞職して、廬山の農村に戻り、その後一度も廬山を離れることはありませんでした。西暦381年、高僧の慧遠は廬山に住み東林寺を建立し、浄土宗を興してたくさんの信者を集めました。東林寺は浄土宗発祥の地となったのです。東林寺がここに存在したため、東晋の王や諸侯、著名な文士などが廬山に次々と寺や廟を建設しました。言い伝えによると、仏教が最も盛んな時期には70あまりの寺や廟が廬山の峰や幽谷に分散されていたといいます。慧遠と東林浄土宗の教義は遠く日本まで伝えられ、日本の東林教も慧遠を教祖として崇めたのです。慧遠は廬山に30年暮らし、南方仏教の領袖となりました。このため、廬山も南方仏教の中心地になったのです。
東林寺の前を迂回したところに流れているのが「虎渓」です。そこにかかる石橋は「虎渓橋」と呼ばれています。有名な「虎渓三笑」の逸話はここから来ています。中国社会科学院の胡小偉氏は、「虎渓三笑の話の登場人物について、廬山に隠棲していた儒家の陶淵明と、最初に仏教の本土化をはかった慧遠、宋朝の高名な道士・陸修静の取り合わせは、3つの思想が相互衝突を経て融和に到ったという思想文化と歴史を現しています。後の人が3思想の融和した記念地として廬山の虎渓を選んだのです。宋朝時代に虎渓三笑の様子が「虎渓三笑図」として描かれ、これをもとに後の時代に虎渓三笑を一種の美談として語り継いだのです」、と説明している。
廬山五老峰のもとには、白鹿洞書院があります。南唐時期に創建された書院は「廬山国学」と呼ばれ、設立当時には数千人の学生がいました。北宋初期、書院は北宋四大書院の一つに数えられました。北宋末期、戦乱が人々の向学心に影響し、書院もだんだんと荒廃してゆきました。1179年、朱子学の祖・朱熹は書院の修復に取りかかり、同時に書院での講義を始めました。彼が教えたのは儒家の経典で、教義を詳しく説明し、学生らに実践を求めました。朱熹はまた教育方法も重視し、「循序漸進、熟読精思(順序だてて読み、熟読して考える)」を勉強の原則としました。また、学生の間でも出来る者が先生になって教えるやり方を提唱したのです。朱熹以降、陸子静や王陽明などがこの思想を引き継ぎました。
1886年の冬、一人のイギリス人宣教師が廬山に上りました。彼の中国名は李徳立といいます。彼は廬山の牯牛峰と呼ばれる平地を見てすぐ、一帯の租借権を手に入れました。権利は999年に及び、李徳立は一帯を「牯峰」と改名して会社を立ち上げ、全面的な建設を始めました。西洋の設計者らは廬山を別荘地として中国とは全く違う様式の洋館をデザインしました。これら洋風建築は廬山の深い文化に包まれ、1927年には560棟の住宅に、アメリカ、イギリス、フランスなど16ヵ国から来た数千人が暮らすようになりました。
蒋介石と宋美齢も廬山に別荘を持ちました。1948年8月、蒋介石は愛した別荘に「美廬」と名づけ、形の良い石を探してこの2文字を彫らせました。それから約10日後、2人は別荘を離れ、再び戻ることはありませんでした。1959年、毛沢東が初めて廬山を訪れこの別荘にやって来た時、関係者は刻まれた2文字を消そうとしましたが、毛沢東がこれを制止たそうです。
ある建築士は廬山を訪れたあと、「廬山は静かな場所で、人間に沈思、反省させる場所だ」と記しています。これは、廬山文化が人間に与える独特の感慨かもしれません。
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